姉の料理
姉の料理にはいい思い出がない。
彼女が結婚するまだまだうんと前、小学生のころの記憶である。
そんな昔の話、普通はもう時効であろう。
家庭科の調理実習だってろくろくやっていないくらいの年齢の話なのだから。
でも、私はそれを忘れはしない。
彼女が作ってくれたカルボナーラは、衝撃的にまずかったからだ。
あれ以来、私はトラウマでカルボナーラが好きではない。
いまだにどうやって作るのか、好きでないのでいまいち分かっていないのだが、どうやら卵と生クリーム(ホワイトソース?)でつくるような話を聞いた。
混ぜ合わせてソースにして、塩コショウで味を調える。
それをパスタに絡ませるのかどうなのか。
多分そんな感じだ。
追求すれば確実に奥の深い料理だが、簡単に作ろうと思えばそれなりに出来そうである。
洋風釜玉うどんのような感じだから。
でも、姉の作ったやつは、そんな次元を超えていた。
カルボナーラを超越したカルボナーラとでも言おうか。
とにかく、一口食べて具合が悪くなったのだからその破壊力たるや。
一体何を入れてどういう手順で作ったのか、いまだ謎のままである。
なんて、こんなことを言っても、それは姉に対して申し訳ないとか、そんなレベルの話ではないのである。
姉本人もあのカルボナーラがきっかけで、カルボナーラ嫌いになったのだから。
それ以来、姉の料理というと身構えるようになってしまって今に至る。
現在はすっかり母親業をしている彼女なので、人並みに料理もできるようになっているはずだが、幼い頃の刷り込みの記憶と言うのはそう簡単に払拭できないものなのである。
中華料理で一番好きなもの
中華料理が好きだ。
漢字で書かれたメニューはさっぱり料理の予想がつかないが、それでも好きである。
ただし、何が好きかと問われて、具体的な料理名が出るほど精通してはいない。
強いて言うなら餃子である。
肉まんも好きである。
どれもこれも、点心である。
と、あくまではその程度の中華料理好きであるが、何が一番好きかと言われれば、それは円卓である。
円卓。
どうしてあんなに仰々しいのであろうか。
丸テーブルひとつでは飽き足らず、その上に小さな丸盤を一つ取り付けてしまった潔さ。
その突発的な感じも好きだけれども、やはり独立独歩、ごく自立している感じがいい。
こと日本人において美徳とされる、あの料理とりわけ術というものはいってみればいかに他人に対して気をきかせられるか、それを無言のうちに品定めしているようなきらいがある。
言葉で明言せず相手に何かを求めると言うのは果たして褒められたことであろうか。
私が単にそういう気遣いが不得手というだけかもしれない。
何か求めるならば、言葉で言ってほしい。
それに比べるとこの円卓と言うのは、一人ひとりが各自食べたいものを取れると言う気安さがある。
それは人に気を使わせないという最上級のもてなしであると思っている。
言わずともなにかしてくれるというのも素晴らしい心配りと言えるかとも思うが、本当に本人が求めるものを欲しいだけ取れるという形は無上のものである。
言って見れば、誕生日に何が欲しいか事前に本人に聞く、といった類の親切さである。
人それぞれそれに対する好悪はあろうが、私にとって中華料理は、その点において世界一である。